- 氏名
- 住所
- 生年月日
- 出身
- 血液型
- 家族構成
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- 資格
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- 好きな映画
- 所属
- 経歴
- 生い立ち
宮下裕美子
北海道樺戸郡月形町市南1
昭和42年(1967年)3月24日生まれ(48歳)
栃木県鹿沼市(旧粟野町)
O型
夫と子ども2人の4人家族
農業(切り花)
菊・スカビオサ・ウインターグラジオラスなど
菊 | スカビオサ白 | スカビオサ青 | ウインター グラジオラス |
スポーツ(バレーボール・登山)、料理
弓道二段
カットフラワーアドバイザー、普通自動車免許、自動二輪免許(中型)
「大胆にして細心」「一所懸命」
「大草原の小さな家」
「ワーキングガール」
北海道月形町議会議員
つきがた まちづくりNPOふきのとう 代表
環境NPO 地球を愛する会@月形 幹事
ママさんバレー「月形ポパイズ」(2009年3月解散)
北海道自治体学会(2008年度~)
廃棄物資源循環学会(2008年度~)
1967年3月24日
栃木県鹿沼市(旧粟野町)で生まれる
1985年3月(18歳)
栃木県立栃木女子高等学校卒業
1989年3月(22歳)
宇都宮大学農学部農芸化学科卒業
1989年4月(22歳)
三菱油化(株)入社 筑波総合研究所農薬研究所配属
1990年12月
結婚
1993年3月(26歳)
三菱油化(株)退社
1993年6月(26歳)
長女誕生
1994年4月(27歳)
北海道月形町に移住。実習農場にて研修開始
ママさんバレー「月形ポパイズ」入部(〜2009年3月解散)
1996年4月(29歳)
月形町農事会にて就農。花作りを始める
1996年12月(29歳)
長男誕生
2003年3月(36歳)
カットフラワーアドバイザー資格取得
2003年12月(36歳)
つきがた未来21設立・副代表(~2005年3月解散)
2005年4月(38歳)
つきがた まちづくりNPOふきのとう設立・代表(~活動中)
2006年7月(39歳)
カットフラワーアドバイザー北海道クラブ(C.F.A. Club do!!)設立・企画部員(〜○○まで)
2007年1月(39歳)
環境NPO「地球を愛する会@月形」設立・幹事(~活動中)
2007年5月(40歳)
月形町議会議員(1期目)
2011年5月(44歳)
月形町議会議員(2期目~活動中)
・誕生~幼少期
栃木県粟野町(現:鹿沼市)の専業農家の長女として生まれる(弟2人)。大家族で育ち、最も多いときは11人家族。
粟野町の風景は月形と似ている。近くに山が迫り、北側に日光の男体山、東側遠くに筑波山が見え、利根川の支流が流れていた。いわゆる里山で、冬のカラッ風(男体おろし)と夏の雷が有名。人口は1万人余り。
ほっぺたを真っ赤にし、青鼻汁を垂らしながら畦道を走っていた。
・小学生~中学生時代
私は昭和42年の早生まれ。丙午と同学年にあたるため極端に人数が少なく、他学年の半分だった。小学校の同級生は12人、全て女子なのも奇遇。中学では2校が一緒になるが、それでも25人(うち男子は5人)。
人数が少ない上に女子ばかりだったので、全ての物事を男女の分け隔て無くこなさなければならなかった。お陰でなんでも積極的に取り組めた。
小学校では運動音痴だったが、中学でバレー部に入りスポーツに開眼。弱小チームで勝利の経験は少なかったが、一生懸命取り組むことの楽しさを知った。それに1年時は体育館がなかったので外のコートでホコリまみれで練習した。このお陰で根性がついたのかもしれない。
・高校生時代
家から片道1時間半かけ通ったのは、栃木県立栃木女子高等学校。ハンドボール部に入り、朝から晩まで練習に明け暮れる。月に一週間は合宿や遠征で、家にいる時間より仲間と過ごした時間の方が長く、この頃の思い出はハンドボール一色。3年時にはキャプテンを務めた。
練習の成果か、2年時の3月に行われた高校選抜と3年時のインターハイでは全国3位。運動音痴からスポーツマンへと変身を遂げた時代である。
・大学生時代
宇都宮大学農学部農芸化学科に入学し、待望の一人暮らし。下宿先が火事になったり、痴漢にあったり、一人で暮らすことの自由と責任を肌で感じ、一人の大人になるための大事な経験を積んだ。
大学3~4年は雑草防除研究施設(現:雑草化学研究センター)で除草剤の勉強をした。化学と農業の繋がり、研究者としての基礎、今の私に通じる考え方の基礎もこの時学ぶ。夫とはここで知り合う。
また弓道部に入り、精神の持ち方が行動を左右することを学ぶ(二段)。各種大会に出場し、日本武道館で弓を引く経験もする。
大学の4年間は勉強だけでなく生活面でも色々考え、行動し、良い思い出や苦い思い出もたくさんできた。人間形成に重要な時間であった。
・会社員時代
就職先は三菱油化株式会社。勤務先は茨城県つくば市の筑波総合研究所農薬研究所。ここで新しい除草剤の研究開発を行う。
退社するまでの四年間に、新規水田用除草剤オキサジクロメホン(MY-100)の発明に関わる研究に従事できたのはとても幸運であった。これは現在、全国の水田で最も多く使われるノビエ防除剤である。
会社では自分の研究だけでなく、女性研究員の地位向上を考えて行動を起こしたことがあり、会社にとっては決して良い社員ではなかったように思う。それでも上司や同僚に支えられて、研究に携わることができた。その時に培われた物事の進め方の手法や管理の仕方など、大企業に勤めたからこそ得るものも多く、社会の仕組みを学ぶのに絶好の四年間であった。
個人的には、入社2年目に23歳で結婚。これもまた私の人生において、かけがえのない出来事である。
・月形で就農~現在
一生仕事を続けたい、今まで学んだことを実践したい、家庭と仕事を両立したい、等の理由で私は新規就農した。夫には夫の理由があったが、農業をしたいという思いは夫婦二人とも同じだった。
就農したての頃は、新しい仕事、新しい土地、新しい環境に戸惑うことも多かった。しかし、私達にとってはその一つ一つが楽しいハードルで、超えるために考えること、行動することが何よりの楽しみになっていた。農業者となれた今、人生でもっとも楽しく充実した日々を過ごしている。
それから、月形に住むようになってから始めたのが「ママさんバレー」。引っ越しの次の日に入部し、以来13年が経った。最初は仲間作りのつもりで始めたバレーもいつしか夢中になり、仲間と共に目標に向かって努力する時間は、私にとってかけがえのないものになっている。
地域活動もまた月形に来てから目覚めた。人口が少ない分、顔の見える関係が築きやすいことが月形の利点。人が心地よく暮らすには人と人の繋がりが大切で、その繋がりを作るために自分が積極的に参加することが重要だということを学び、現在も実践している。たくさんの人と繋がりを持てた現在、安心して暮らせることの幸せを感じている。
そして私には子供が2人いる。就農時0歳だった長女と、3歳下の長男である。子供の成長は私達夫婦の歴史でもある。家族みんなで楽しみもつらさも分け合ってきた。私達家族が今こうして元気に楽しく暮らせるのは、周りから支えてくれたたくさんの月形の方々のお陰だからこそだと思う。
月形での暮らしは、私に安心と安らぎを与えてくれる一方、自分が何者で、どこに行こうとしているのかを突きつけてくる。私はその答えを「自分らしく生きることで得られる」と考え、自分自身に向き合い、正直に生きるように心がけている。そしてこれからもそうして生きていくと思う。
まちづくり記録に続く・・・