2010年06月28日

田園空間博物館樺戸地区・月形エリア施設見学会(1)

6月26日(土)午前、前日に引き続き抜けるような晴天と真夏の暑さ(この日の最高気温は30.4℃。今年一番の暑さ。道内(道東方面)では37℃越え!!)のもと、田園空間博物館樺戸地区・月形エリア施設見学会(略して「田空ツアー」)が行われました。定員は約30人。一同マイクロバスで町内を回りました。

この田空ツアー、企画の目玉は『月形町郷土史研究会会長・熊谷正吉さんによる解説付きのバスツアー』というところ。熊谷さんは「月形町の生き字引」または「熊谷さんなくして月形の歴史が世に出ることはなかった」といわれる方で、樺戸集治監の資料収集や整理を精力的に行い、ご自身で本も出版しています。また執筆のために月形を訪れた司馬遼太郎氏(街道をゆく15 北海道の諸道)や吉村明氏(赤い人)他、多くの文人とも親交のある方です。
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午前9時30分、役場前に集合。まずは役場隣にある樺戸博物館の周辺施設の見学。

【石油庫(あぶらこ)】
博物館裏手、敷地の西の端に立つ煉瓦造りの建物で、明治31年に建てられた当時のままに存在しています(屋根は当初は瓦→茅葺き→トタン葺き)。
建設当初はランプの燃料を保管(耐火性を持つ煉瓦造りにした)。廃監後は所有者が代わる代わるするも大切に使われ、今は大事な書類の保管庫になっています。

【月形潔像】
旧樺戸集治監本庁舎と樺戸博物館本館との間に建つ銅像で、月形町出身の彫刻家・本田明二氏の作です。(写真の左端に写っているのが月形潔像。ちなみに、月形小学校敷地内にある「母と子の像」も本田明二氏の作とのこと。)
月形潔(つきがたきよし)は、この地に集治監を立てることを明治政府に進言した人であり、樺戸集治監の初代典獄です。当時の典獄は単なる監獄署長というだけでなく、行政の長の役割もあり、月形の歴史にとって重要な人物です。また月形町の名前の由来でもあります。

【石碑】
月形潔像の隣に建つ石碑。もともとは北漸寺の境内に立っていたものを移設しました。
篆字で書かれた題字は西郷従道(西郷隆盛の弟)によるもので、月形潔のために書いたもの。本文は既に風雪で読みにくい状態ですが、建立すぐに拓本をとってあり、博物館内に保管してあるとのことです。(内容の説明がありましたが、聞き取れませんでした。写真は石碑の前で説明する熊谷さんとと聞き入る参加者)

バスで移動し、篠津山霊園内にある囚人墓地へ

【囚人墓地】
囚人墓地に関する情報は、以前のブログ「平成20年度 樺戸監獄物故者追悼式」に書いていますので、ご参照下さい。
追加の情報として・・・
囚人が死亡するとひとまず埋葬し白骨化した頃それまでのものを集めて野火で焼き、そのお骨をまとめて合葬墓に埋葬したとのこと。明治14年〜17年:281体、明治18年〜23年5月:215体、明治23年6月〜?まで:120体。明治27年頃からは個人墓になるも墓碑銘は名前(のちに熊谷さんや北漸寺住職らにより戒名づけ)、明治35年以降の墓碑銘は戒名。
月形町では、囚徒の労苦により町および北海道が開かれたとの想いから、毎年9月3日頃に慰霊祭を行っています。

バスで移動、車窓から見学

【灌漑溝】
自給自足を原則とする集治監では開監時(明治14年)から米の試験栽培を重ね、明治30年代に入って反収が上がるようになったので、明治37年、囚人を動員して6.8kmの灌漑溝を作りました。完成するとすぐ農事会地区を中心に37haの「監獄水田」ができ、余剰水は民間へも提供して更に100haの水田を潤すことができました。このことにより、樺戸集治監は他の監獄より食糧事情が良く、恵まれていたとのことです。またコウゾの栽培も行い、公用紙も自給自足していたとのこと。
これらの事業は全て歴代の典獄の素晴らしい采配によるもの。行政の長としての典獄の仕事ぶりが感じられるお話しです。

→ → → つづく

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